清州橋そば、清澄のルビアン直営工場の紹介記事にて、
日経新聞夕刊にエーデルワイスの比屋根毅さんの取材記事が
あることをご紹介しました。
以下、日経新聞夕刊から引用させていただきます。
=================================================================日経新聞 2012/3/7夕刊 生活・ひと面 【人間発見】
エーデルワイス会長 比屋根毅さん 洋菓子挑み続けて60年
(3) 学費稼ぐアルバイト、菓子と最初の出合い
1953年から2年間、米軍統治下の沖縄で、通信士になるために夜間の教習所に通った。
日中は学費を稼ぐためアルバイトに精を出し、そこでお菓子と出合う。
沖縄に着いた当初は伯父の家に身を寄せました。そこには米軍の通訳をしている人が
下宿をしており、通信士になりたいという夢を語ると、あるラジオ店を紹介され
早速住み込みで働くことになりました。昼は米軍払い下げのコンデンサーやトランスを組み立て、ラジオを作ります。夜はトン・ツーのモールス信号を習いに教習所に通う生活です。
僕が作ったラジオはよく売れましたが、次第に販売競争が激しくなり、ラジオ店はつぶれてしまいます。
伯父は新たな職場として「ひよしや」さんというお菓子屋さんを紹介してくれました。
これがお菓子との最初の出合いです。僕の仕事は炭でせんべいやカステラを焼くことです。
レンガ釜の四隅に火を入れ、灰をかぶせて焼くカステラの手法は原始的ですが、本当においしい。
ここで2年間働き、お菓子の基礎を学びました。
もちろん、その当時は菓子職人が終生の仕事になるとは思っていませんでした。
通信士の試験に2度チャレンジしたものの不合格。本土へ渡り、再チャレンジの機会をうかがう。
猛勉強のかいなく、試験に落ちましたが、通信士になって船に乗り、世界を見聞しようという夢は断ち切れませんでした。そこで本土へ出て、勉強しようと考えたのです。
55年5月、「くろしお丸」に乗り、3日がかりで神戸にたどり着きました。
17歳の時のことです。神戸第3突堤に上陸し、その足で人力車に乗り、神戸駅に向かいました。
車夫に「雪は降らないのですか」と聞いたら笑われました。
切符の買い方を教えてもらい、目指した先は沖縄の人が大勢肩を寄せ合って暮らしている大阪の大正区です。
大正区に着いた翌日、職業安定所へ向かいました。
当時、本土からみれば沖縄は外国です。沖縄出身者の就職は容易ではありません。
菓子に携わった経験を話し、ようやく紹介してもらったのが大阪市内の「ナイス食品」という会社です。
面接に行った時のことです。担当者は僕に「あなたは日本語を話せますか」と聞いてくる。
僕は「今、話している私の言葉は何語ですか」と聞き返しました。
ショックでした。同時に「絶対にナイチャー(本土の人)には負けないぞ」と私の心に火がつきました。
結局、ナイス食品に正社員として採用され、昼間に働き夜は通信学校へ通う生活が始まりました。
通信士の勉強をする一方で、反骨心をばねに誰よりも働き次第に頭角を現していく。
当時のお菓子屋さんは職人が午前中にお菓子をつくり、
昼から得意先に売りに出るしきたりでした。売れ残りが出たら、
その分、給料から差し引かれる。先輩たちはパン屋とか喫茶店といった上得意をもっていたが、僕には得意先がありません。そこでアルバイトで空手を教えていた道場の弟子たちを戎橋(大阪市中央区)に連れて行き、露天を開いて売りました。空手着をまとった珍しさもあり、先輩の売れ残りも引き受けるほどよく売れました。売れないときは売りに行けばいい――。この時の経験が独立直後の危機に際して大いに役立ちました。ナイス食品には名人がいました。アルコール好きでいつも手が震えていましたが、手先が器用で芸術的センスにも優れていました。こんな人にはいまだお目にかかったことはありません。僕は仕事が終わってから兵庫県伊丹市の自宅に押しかけました。ピエスモンテ(工芸菓子)などの技術を教わり、次第に洋菓子に魅力を感じるようになります。
ある時、大将(社長)から「どうして通信士になりたいのか」と聞かれました。僕が「外国航路の船に乗って世界を飛び回りたい」と答えると、大将は「洋菓子の本場は欧州だ。頑張れば行かせてあげる」というのです。この瞬間、新たな世界が僕の目の前に広がりました。
通信士と同じように世界へ行けるのなら、洋菓子の職人になろう。それも日本で一番の職人になろう。決意したのは本土に渡ってから3年目、19歳の時でした。
最近のコメント