清州橋そば、清澄のルビアン直営工場の紹介記事にて、
日経新聞夕刊にエーデルワイスの比屋根毅さんの取材記事が
あることをご紹介しました。
以下、日経新聞夕刊から引用させていただきます。
人間発見 エーデルワイス会長 比屋根毅さん
2012/3/6 15:30 | 日本経済新聞 夕刊
1937年、沖縄県・石垣島で8人きょうだいの3番目として生まれた。戦争を挟む厳しい時代を生き抜いたことが、人生の自信となった。
両親はサトウキビなどを栽培する農業で生計を立てていました。時に三味線を教えたりしていました。当時の石垣は貧しい土地でした。台風にも頻繁に襲われる。通過した後、両親が電気がともらないランプの下で「これから生活をどうしよう」と悲嘆に暮れる姿を横目で見て育ちました。
太平洋戦争中は我が家に旧日本軍の小隊長が下宿していました。米軍機が旧日本軍の高射砲で撃墜される光景もよくみました。僕が手をたたいて喜んでいたら、「あれは日本の飛行機だ」と怒られた記憶があります。戦艦からの攻撃で爆弾が落ちたところに雨が降れば水たまりができ、泳いだりしました。戦争末期に村民は山間部へ疎開しました。そこで悲劇が起こったのです。疎開した多くの人は洞窟で生活していたため、蚊にさされてマラリアを発症したのです。ござにくるまれ何段にも積み重なった遺体が馬車で火葬場に運ばれていく光景は今でも目に焼き付いています。
幸い僕は発症しませんでした。洞窟で寝ずに、ターザンのように木の上で暮らしていたからでしょうか。自然児で山を走り回り、ハブやセミ、カエルを捕まえ、家計を助けていました。ハブは最高においしかったですよ。終戦時は8歳でしたが、人間、どんなことをしても食べていけるんだと、子どもながらに思いました。
6歳から空手を始めた。闘争心と忍耐は空手の修行から生まれた。
石垣島には至るところに空手の道場があり、ヌンチャクの名人や、蹴りがうまい先生が大勢いました。僕に本格的に教えてくれたのは母方の祖父です。イノシシ捕りの名人で、山の畑の小屋に住んでいました。生け捕りしたイノシシを檻(おり)の中に数日入れておくと、どう猛になる。その中に12歳の私を放り込んだのです。檻の天井には棒がありました。跳び上がればつかまることができ、イノシシが猪突(ちょとつ)猛進してくれば、これにつかまって逃げる。疲れたイノシシの目と目の間を真っ正面から突けば、ダウンさせることができるのです。万が一に備え祖父は鉄砲を構えていましたが、今なら子ども虐待で訴えられるでしょうね。
中学生時代、イノシシとは15回闘いました。鮮血が噴き出せばタバコの葉を貼るとすぐに止まります。今でも手の甲と額に残っている傷は格闘の痕跡です。翌日、学校へ行けば、すごい形相ですから皆に怖がられました。両親はこんな荒行を黙認していました。食いぶちを減らすためなら、兄弟のうち1人ぐらい死んでも構わないと思っていたのかもしれません。島の空手の大会では負けたことはほとんどありませんでした。
中学を卒業すると同時に、通信士になる夢を抱いて沖縄本島へ向かった。
10歳の時、病院の待合室にあった「リーダーズ・ダイジェスト」という雑誌を拝借してきて、毎日むさぼるように読みました。分かったことは石垣の海は世界に通じているということです。とにかくこの小さな、そして惨めな島を一刻も早く脱出し、世界を旅しよう。通信士になれば、この夢は実現できるはずだ――。こんな思いが中学生時代の僕の心を支配していきます。親には「行ってきます」とも言わず、僕は家を飛び出しました。15歳。高校入試の当日です。白紙の答案を出し、その足で桟橋へ向かいました。目的地は沖縄本島です。姉が風呂敷包みに着替えを入れ、港まで見送ってくれました。船が桟橋を離れるにつれ、その姿が小さくなっていきます。
「えらいことをしてしまった」。出航すると急に不安に襲われました。今飛び込めば、泳いで岸までたどり着けるとも思いましたが、後の祭りです。僕が乗ったのは牛や馬を運ぶ船でした。馬を誘導し、船のバランスを保つ仕事を任され、運賃はただにしてもらいました。宮古島経由で那覇に着いたのは1週間後でした。
(聞き手は神戸支局長 宮崎義夫)
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