日経新聞に東京の下町はどの範囲のことをいうの?またそれは時間軸で見るとどう判断できるの?という記事がでていて、すごく面白いので引用させてもらったり、その他の意見を確認してみたり。
日経新聞 6/12朝刊 首都圏経済面から引用
なんでも調査団 東京下町、範囲どこまで 江戸城の東・北に拡大
東京の下町が注目を集めている。5月に東京スカイツリーが開業。柴又が舞台の映画「男はつらいよ」の寅さんは若い女性に人気だ。昨年は池井戸潤氏の小説『下町ロケット』が直木賞を受賞。それぞれの場所や舞台は墨田区、葛飾区、大田区でいずれも「下町」と呼ばれるが、東京の下町の範囲はどこまでで、歴史的変遷はあるのだろうか。
そもそも下町に厳密な定義はなく、庶民の間に自然に使われ、定着した言葉だ。江戸東京博物館(東京・墨田)の竹内誠館長によると史料に初めて下町という言葉が表れたのは17世紀。文字通り低地という意味で、下町には町人、高台の山の手には身分の高い武士が住んでいた。
やがて町人が武士に並ぶ力をつけると「下町」の意味に変化が起こる。文政期(19世紀)に幕府がまとめた『御府内備考』は「御城下町」の略だろうと解説。「将軍様のお膝元との思いが下町の誇りになった」(竹内館長)という。城下町なので範囲は狭い。江戸城の東側を西端に、東端は隅田川、南端は新橋、北端は神田川。中心には日本橋があった。一帯には大きな商家が多く、奉公人が肩を寄せ合って暮らした。人様に迷惑をかけない、困ったときはお互いさま。いわゆる「下町人情」がここから生まれた。
明治期に入ると下町と呼ばれる範囲も広がる。当時の書物『日本名勝地誌』には「京橋、日本橋、神田、下谷、浅草の五区は俗に下町」と称するとある。江戸期の下町と同じく商業が栄え、職住近接の地だった。関東大震災で住民が墨田区や江東区に移り住むと、そこが下町と呼ばれた。戦後、古くからの下町がオフィス街化すると人がさらに東に移り、今では葛飾、荒川、足立、江戸川、そして大田の各区も下町と呼ばれるようになった。庶民の暮らしとともに変化した下町の範囲。竹内館長は「土地の呼び方は生き物」と話す。<もっと知るには>
○下町の生活文化や風俗を知るには江戸東京博物館の常設展示がおすすめ。江戸の町民文化や近現代の庶民の暮らしを、実物大の模型で再現している。
○『東京の地名由来辞典』は下町、山の手の語源をはじめ、東京23区各地の地名の由来や変遷を解説している。
この記事がきっかけで、下町 定義で検索してみるとやはりwikipedia。
下町 wikipesia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%94%BA
両方に共通していることは、江戸後期の下町は「御城下町」であること。日経の記事で江戸から明治にかけての下町は、京橋、日本橋、神田、下谷、浅草といったあたりを指していたという意見に対して、wikipediaの筆者の方は、「、日本橋、京橋、神田、下谷、浅草、深川、本所等である。谷根千と呼ばれる谷中、根津、千駄木はそれぞれ寺町、下町、(下級)武家町である。下町に対し、武家町、寺町などの言葉もある。」
といったあたりが異なる点。
このブログは深川にフォーカスしてるので深川が下町といわれることになった時期には興味ありますが、このあたりはスゴク詳しい方がたくさんいらっしゃると思いますのでコメント欄に是非記述していただきたいです。
だんだん江戸時代の日本橋を中心とした下町がオフィス街になって行き、下町といわれるエリアが戦後広がっていったというストーリーはどちらも同じですね。
日経の記事で学べるのは、下町人情=人様に迷惑をかけない、困ったときはお互いさま
なるほど。さらにここにおせっかいとか何とかを下町気質として記述しているものも多いですね。
ぶっきらぼう、お風呂熱い、、べらんめぇ、実はシャイとかこんなのもあるのかなとは思いますが。
さらにこんな話。子供のころの英語の教科書は下町=Downtownだったけど、今の辞書だとThe Lower City area of Tokyoなんですと。。。
Office/English Farmというブログ。「downtownはビジネス街や繁華街などの街の中心部をさす」ということらしいですよ。
http://kilimanjaro.cocolog-nifty.com/english_farm/2012/03/post-2143.html
いろいろ勉強になります。
最近のコメント