清州橋そば、清澄のルビアン直営工場の紹介記事にて、
日経新聞夕刊にエーデルワイスの比屋根毅さんの取材記事が
あることをご紹介しました。
以下、日経新聞夕刊から引用させていただきます。
=================================================================人間発見 エーデルワイス会長 比屋根毅さん
2012/3/5 15:30 | 日本経済新聞 夕刊
比屋根毅さん(74)は「スイーツの街・神戸」を代表する洋菓子店の創業者だ。エーデルワイスで修業し、パティシエとして独立した弟子や孫弟子は100人を超す。「比屋根一家」の家長として、昨今のスイーツブームをリードする。
ひょんなことから僕が洋菓子の世界に足を踏み入れたのは60年前です。以来、日本の洋菓子界の発展とともに歩んできました。当時、菓子といえば和菓子を指すことが一般的で、庶民にとって洋菓子は遠い存在でした。もちろん、スイーツとかパティシエといった言葉は聞いたこともありません。当然、技術も味も本場の欧州のお店の足元にも及びませんでした。
それが今では、日本の洋菓子店の技術は欧州を完全に上回っている。欧米のパティシエが日本の洋菓子店に研修に来るほどです。ものづくりにたけた僕たち日本人が「欧州に追いつけ、追い越せ」を合言葉に、技術を磨いた成果といえるでしょう。洋菓子職人の修業は本当に厳しいものです。僕の修業時代もつらかったが、今の弟子たちも同じような経験をしています。例えば、僕がデコレーションケーキをつくってみせ、同じものを僕が出社する翌朝までにつくるように命じます。職人たちが懸命につくり上げた作品をみて、出来が悪ければ何も言わずひっくり返します。ひどいときは頭をつかまえて、ミキサーにたたきつけたりもしました。
関西の人気店「ケーキハウス・ツマガリ」創業者の津曲孝君もよく泣いていました。こんな修業に耐えて独立し、全国へ巣立っていったパティシエは100人にとどまりません。比屋根一家といわれる彼らが、今のスイーツブームを支えているという多少の自負があります。
「アンテノール」「ヴィタメール」などのブランド名で、全国に74店舗を展開する。職人であると同時に経営者として事業を切り盛りしてきた。
1966年に独立し、兵庫県尼崎市で創業した際の店舗は、売り場面積が26平方メートルの1店のみ。その後、曲折をたどりながらもピーク時の90年には店舗数は150を数えました。当時の主力ブランド名は社名と同じエーデルワイスです。全国にフランチャイズチェーン(FC)展開し事業を拡大しましたが、落とし穴がありました。コンビニエンスストアという強力なライバルが現れたのです。実際、いいお菓子を置き始めていました。「コンビニの力は半端じゃない。早晩、FCの時代は終わるだろう」と思いました。FCは安全・安心の面でも難がありました。そこで、僕が経営者として下した決断は全店閉鎖です。商店街からは「エーデルワイスは倒産した」といった風評が聞こえてきました。この危機は直営のアンテノールなど新ブランドを店舗展開していくことで、乗り越えることができました。経営は軌道に乗り、2012年3月期の年商は約140億円を見込んでいます。時機がきたら株式を公開したいですね。
会社や工場で常に白衣を着ているのは職人、技術者としてのプライドの表れだ。今でも現場で陣頭指揮を執る。
僕には学歴はありません。若いころは経理や会社経営に疎く、お金を持ち逃げされるなど多くの失敗を重ねました。しかし、その都度経理学校へ通ったり、経営の勉強をしました。学歴がなくても、こつこつと一生懸命に努力すれば何とかなるものです。「石の上にも三年」といいますが、僕がそうであったように、一人前になるのに30年の歳月を必要とするケースもあるのです。当社の創業の精神は、洋菓子会社に思えないかもしれませんが「忍耐と信用」です。今年は洋菓子一筋に歩み、60年を迎える節目の年です。この間に熟成させた技術を存分に生かし、こだわり抜いた商品をデビューさせようと構想を練っているところです。消費者の注文を承ってから、すべて手づくりで仕上げるような商品です。神戸や大阪などそれぞれの地域にふさわしい限定商品とします。僕の職人としての総仕上げの仕事です。プライドをかけて、消費者の感動を呼ぶ商品をつくりますよ。
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