清州橋そば、清澄のルビアン直営工場の紹介記事にて、
日経新聞夕刊にエーデルワイスの比屋根毅さんの取材記事が
あることをご紹介しました。
以下、日経新聞夕刊から引用させていただきます。
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人間発見 エーデルワイス会長 比屋根毅さん
2012/3/8 15:30 | 日本経済新聞 夕刊
洋菓子職人としての修業に明け暮れ、独立して創業したのは1966年だった。
大阪のナイス食品時代は、近畿洋菓子コンテストで優勝を重ねるなど実績を積み、講師として全国の菓子店の職人を指導するまでに成長しました。講習に出向いた先に兵庫県尼崎市の「大賀製菓」があり、洋菓子部門の責任者として迎えたいという申し出を受けました。僕は入社するに当たり、条件をつけました。修業のために毎年長期の夏休みがほしいという条件で、これが受け入れられたため57年に移籍します。
実際、夏休みには日本で一番修業が厳しいといわれていた「トリアノン洋菓子店」の創業者、安西松夫先生の門をたたきました。軍隊帰りの人で、手がすぐに出る。毎日、午前3時から深夜12時まで働きました。新人の職人は1カ月で半分が辞めていきました。独立するきっかけとなったのは65年に秋田で開かれた第16回全国菓子大博覧会で大賞を受賞したことです。出品した作品は「大阪城天守閣」です。石垣島出身の僕にとって、冬の秋田は想像を絶する寒さでした。制作現場のガレージは吹きさらしで、作品が乾燥してしまうため暖房は使えません。3時間睡眠を55日間続け、完成させた作品でした。「今度は自分の城をつくろう」。受賞をステップに独立を決意しました。
独立は甘くなかった。創業資金が乏しかったうえ、自信のあった商品がさっぱり売れない。
友人たちは、過去に受賞した賞状の束を銀行へ持って行けば担保になるから、お金を貸してもらえるだろうといいました。しかし支店長にかけあってみると、相手にしてくれません。もっとも粘り強いのが僕の信条です。あきらめずに日参していると、ついに支店長が根負けして開店資金として270万円を貸してくれました。尼崎市立花の商店街のはずれに小さな店舗を構えましたが、来る日も来る日もお客さんは来ません。2カ月たったころには「もう閉店するしかない」と覚悟を決めました。そこで店に置いてあったすべての原材料を使い切って商品を作り、近所の会社や洋裁学校などへ出向き、無料で配りました。
「職人に戻ろう」。その日はすっきりした気分で寝入ると、翌朝シャッターをどんどんたたく音がします。多くのお客さんです。きのう食べたシュークリームやショートケーキがおいしかったから買いに来たと口をそろえます。評判が評判を呼び、エーデルワイスは一気に人気店となりました。
エーデルワイスを多店舗展開する一方で、新ブランドのアンテノールを立ち上げた。83年には悲願の東京進出を果たす。
神戸市北野に出店したアンテノールが人気となったことで、三越(当時)から銀座店への出店のお誘いを受けました。願ってもない話でしたが、提示されたのは人通りが少ない場所でした。テーブルを挟み、店長との出店場所をめぐる交渉は今でも鮮明に覚えています。当方は一等地であれば出店するとあくまで強気です。僕は後ろに弟子と、息子で現社長の祥行を立たせていました。話し合いを始めてから4時間後、弟子の服が真っ赤に染まっている。緊張のあまり鼻血が出たのです。ぬぐおうともしない弟子の姿に店長は驚き、「頼むから座ってくれ。希望の場所に出店してください」といってくれました。この弟子は僕の右腕で、その後、人気店「スイス菓子ハイジ」のオーナーとなる故前田昌宏君です。
銀座への進出が決まり社員の士気は上がる一方、成功するかどうか不安もありました。銀行は東京進出に反対しています。職人たちがいよいよ東京に向かうという日のことです。深夜12時、尼崎の本社研究所の4階に50人を集め、出陣式を行いました。今思えば、日本を代表するそうそうたる連中です。全員が鉢巻きを締め、コップ酒を酌み交わしました。
「君たちは特攻隊だ。成功するまで帰ってくるな」。僕は檄(げき)を飛ばしました。下に待たせてあるトラックに彼らが乗り込み、出発するのをみて心底から泣きました。「僕は幸せだ。この連中のためにも、成功させなくてはいかん」
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